地下浪人と農民 -岩崎彌太郎の生家を訪ねて考えた事-

地下浪人と農民 -岩崎彌太郎の生家を訪ねて考えた事-

共同通信「めぐみネット」で連載している『農大酵母の酒藏を訪ねて』で、愛媛西条市の「石鎚酒蔵」に取材に行くことになった。高知に住んでいる長年の友人が高知県内を車で案内してくれることになったので取材の後、高知に向かった。

<高知駅で落ち合い、ゆずで知られる馬路村に行くことになり、その途中にある三菱グループの創始者岩崎彌太郎の生家を訪ねた>

彌太郎は土佐国の地下浪人の家で岩崎彌次郎と美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。もともと、土佐の郷士は、関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部元親の系譜を引く者が多く、新田開発を行う度に取り立てられてきたらしい。岩崎家は彌太郎の曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったと言われている。
駐車場に車を止め彌太郎の生家に向かった。

 

(岩崎彌太郎の銅像)

 

門があった。江戸時代の門は家格の象徴だから藩の許可が必要だった。門の形から考え、それほど身分が高くない郷士の家のようだ・・・・・と、最初は思ったが、しばらくして、違和感を覚えた。なぜなら、前述したように、彌太郎の曽祖父弥次右衛門は郷士の株を売ったのだから、彌太郎が生まれた時には、岩崎家は土佐国の地下浪人の家だったことを思い出したからだ。地下浪人は、郷士より身分は低く、生活レベルも農民とそれほどと変わらなかったはずで、門を構えることは許されなかったはずだ、さらに、驚いたのは、母屋の裏には2つの藏が建っていたことだった。

<地下浪人の家に門と蔵?>

僕の違和感はさらに広がった。そこで、説明役のボランタリーの女性に聞いたところ、門については分からなかったが、米藏は明治19年に、家財藏は明治20年に建てられたとの事だった。この蔵の建設時期は、彌太郎が明治18年に世を去った時期と重なる。僕は、「やはりそうだ」と前に感じた違和感に納得した。この違和感は、母屋の前の庭を見た時にさらに高まった。

母屋の前には、日本の島々を形どった庭があり、その庭の説明文によれば、彌太郎は5歳の時に天下雄飛の夢を託して、日本列島を模して自分で作ったものだと書かれていた。しかし、実際の石はかなり大きく、とても5歳の子供が運べるとは思えなかった・・・・

僕は、そこに、「後出しジャンケン」の臭いを感じた。もともと、岩崎彌太郎は、「藩札を新政府が買い上げると」の情報を、事前に、後藤象二郎から得ていて、各藩の藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る「政商」として世にで、後に、三菱商会を創りあげたのである。その経緯を思うと、彌太郎の生家の「後出しジャンケン」にも妙に納得がいった。

「高知にはローソンが多い」ことに気が付き、「どうしてなのか?」と考えていたが、岩崎彌太郎の生家をみて、その答えがわかったような気がした・・・・・・「ローソンは三菱系なのだ」

僕はいろいろな点で異民族なのだが,特に、「後出しジャンケン」的なインチキや、人に忖度するような自分を売り込むような行為については、瞬時に、「拒絶反応」してしまう通癖をもっている。
「その位の行為は、人間として認めてやっても良いんじゃないか」
と、友人は言うのだが、この癖はおそらく直らないのだろう。

僕が「農の風景」などと言うコラムを書いているのは、おそらく、農業が自然に対してインチキや忖度を仕掛けても、自然はそんな行為を受け入れてくれず、農業は自然をありのままに受け入れざるをえない業だと思うからだ。

 

 

【プロフィール】
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)
千葉県生まれ。小説『夕焼け雲』が2015年内田康夫ミステリー大賞、および、小説『したたかな奴』が第15回湯河原文学賞に入選し、小説家としての活動を始める。2016年ルーラル小説『撤退田圃』、2017年ポリティカル小説『したたかな奴』を月刊誌へ連載。小説『錯覚の権力者たちー狙われた農協』、『浮島のオアシス』、『A Stairway to a Dream』、『やさしさの行方』、『防人の詩』他多数発表。2020年から「林に棲む」のエッセイを稲田宗一郎公式HP(http://www.inadasoichiro.com/)で開始する。

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