第6回 農業政策の転換の背景(その1)-新自由主義経済学-

第6回 農業政策の転換の背景(その1)-新自由主義経済学-

日本の農業政策が構造政策へと大きく転換した背景には、1980年代に登場した新自由主義経済学があります。そこで、まず、新自由主義経済学について簡単に説明しましょう。新自由主義経済学はアメリカのM.フリードマンやオーストリアのF.ハイエクの理論に基づく考え方として知られています。

第2次世界大戦のあと世界の経済政策の理論的な裏付けはケインズ経済学でした。ケインズ経済学の基本は、経済状況が悪く失業が発生する時には、政府は積極的に公共事業を実施し景気回復をはかる事でした。この経済政策は、1950年代、60年代にアメリカ経済の繁栄をもたらしました。この時代は、不完全雇用時(不景気)には政府が公共事業を実施しする政策が、その結果、完全雇用が達成されれば、新古典派理論(市場メカニズム)が有効だとする新古典派総合が学会の主流になっていました。1970年にはマサチューセッツ工科大学(MIT)のP.A.サムエルソンがノーベル経済学賞を受賞し、アメリカ経済学会だけでなく世界の経済学の潮流はこの新古典派総合が主流となりました。

しかし、1970年代になると、アメリカはインフレと失業が併存するスタグフレーションを引き起こしました。さらに、1970年代の石油危機により、アメリカは深刻な財政赤字と貿易赤字、すなわち、双子の赤字が発生し大きな問題となりました。

その頃、シカゴ大学のM・フリードマンは、ケインズ経済学の有効需要政策、すなわち、「大きな政府」を批判し、これに代わる「市場メカニズム」を重視する「小さな政府」を主張したのです。それ以降、政府による裁量的な政策を批判し市場原理を重視する新自由主義経済学者が徐々に発言力を強め、彼らの提唱する政策が各国政府に導入されていったのです。

<それが、共和党のロナルド ・レーガン政権によるレーガノミクス、英国のマーガレット・サッチャー政権によるサッチャリズム、そして、中曽根政権の行財政改革でした>
レーガンは規制の撤廃と緩和による自由競争の促進を、サッチャーは政府規制の緩和、すなわち、国有企業の民営化と最高所得税の減税を、中曽根は国鉄、電電公社、専売公社の民営化など新自由主義に基づく政策を実行していったのです。
日本が新自由主義よる政策展開にかじを切ったのはアメリカからの要求がありました。当時、日米貿易摩擦が外交問題となっていました。レーガノミクスの結果として双子の赤字に苦しんでいたアメリカは、巨額の対米貿易黒字を計上していた日本に圧力をかけたのです。これに答えようとしたのが中曽根総理でした。

中曽根総理は、1983年の第98回国会で、
「行政改革については,特に急務である国鉄の事業の再建を期し,「日本国有鉄道の経営する事業の再建の推進に関する臨時措置法案」について審議をお願いしておりますが,今後,更に,電電,専売両公社の事業の改革,公的年金制度の見直しなどを始め,臨時行政調査会のこれからの答申をも含め,諸問題に真剣に取り組み,国政全般にわたって,着実かつ強力な改革を推進していく所存であります」
との施政方針演説を行いました。

<この改革の方針をまとめたのが前川レポートでした>
前川レポートとは、1986年4月7日に内閣総理大臣中曽根康弘の私的諮問機関である経済構造調整研究会がまとめた報告書です。その内容は、日本の大幅な経常収支の不均衡の継続は危機的状況であるとして、世界経済の観点からみて、現在の日本の経済運営は望ましくないとしたのです。その元凶である日本の経常収支の不均衡の解決のためには、住宅対策と都市再開発事業の推進、消費生活と余暇の充実、地方のインフラ整備の推進などの内需拡大や市場開放及び金融自由化などが必要だとしたのです。具体的には、アメリカの要求にこたえるために、10年で430兆円の財政支出の拡大や民間投資を拡大させる為の規制緩和の推進などを約束したのです。

80年代後半の日本は、この前川レポートの通りに改革が実行されましたが、内需を刺激するための金融緩和策により金余りが進み、土地開発による地価上昇もあいまってバブル経済を生みだすことになったです。その後、細川内閣の1993年12月のGATTウルグアイラウンド農業合意に基づくコメの輸入部分自由化、さらに、小泉首相による大幅な規制緩和と市場経済を重視した聖域なき構造改革と続き、それを農業に適用したのが構造政策、すなわち、規模拡大政策だったのです。

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