ドイツ紀行2-ハイデルベルグにて

ドイツ紀行2-ハイデルベルグにて

今から約100年前の1923年に、祖父は文部省の在外研究員としてドイツのハイデルベル大学に留学し、新カント学派のハインリヒ・ヨーン・リッケルト教授から教えを受けた。ハイデルベル大学はドイツ連邦共和国で最も古い大学である。今回、祖父が100年前に滞在していた下宿先が果たして残っているかどうかを確かめるためにハイデルベルグを訪ねた。祖父の葉書に記してあったUferstraße 48Aの住所が唯一の手掛かりだった。

ハイデルベルグ城(橋の対岸の左丘が城、上図:現在、下図:1620年)

9月28日ベルリン中央駅10:25発のFLIXTRAINに乗り、ハイデルベルグに16:34に着いた。ハイデルベルグは第2次世界大戦の被害を受けなかった数少ない街の1つだったから、駅からホテルへ向かう道を祖父が歩いていたのかと思うとなぜか緊張した。
翌日、ホテルを出てハイデルベルグ城へ向かう。ハイデルベルグ城はドイツで最も有名な城趾の1つである。ドイツらしい落ち着いた石畳のある古い道をゆっくりと進む。空気は、なぜか、コケの臭いが混じったようなしっとりとした湿った感じがして、空気そのものが古い街を覆っているようだった。しばらく行くと、右側に小さな門があった。その門をくぐり道に沿って登っていくと城に繋がっているらしい。石畳の古道を登るにつれて徐々に高度があがり、少し汗ばんできた。一息入れ、締めっぽい石畳をさらに登っていくと道が二手に分かれた。右側の厚い石の壁に沿って登り、さらに、両側が茶色の高い壁に囲まれた中世が息づいている道を進むと中庭らしい場所に出た。
そこには、古い城の落ち着きがあった。中庭からはハイデルベルグの町が見えた。ネッカー川に架かる1788年に建てられたレンガ色のアルテ・ブルッケ橋(最初の橋は木製で10世紀ころ建てられた)の手前には、赤いレンガ色の屋根と白い壁が見えた。おそらく、祖父もこの同じ景色を見たのに違いない。
帰りはケーブルカーに乗り、ハウプト通りにでて、ハイデルベルク大学の図書館に向った。残念ながら図書館は工事中だった。その後、指揮者のフルトベングラーの葬儀が行われた聖霊教会を見てアルテ・ブリュッケ橋を渡った。アルテ・ブリュッケ橋からネッカー川を下流に向っている道がノイネンハイマン通りだ。ノイネンハイマン通りを、右側の古い街並みを見ながらゆっくりと歩くのは楽しかった。この道も祖父が歩いたのに違いなかった。

ノイネンハイマン通りは約1km続く。テオドール=ホイス橋の下をくぐるとウーファー通りと名前が変わる。この道が目指す通りである。右側の家の番地を見ていくと、運がよいことに、道沿の各家に番地がついていて分かりやすかった。しばらく行くとUferstraße 48番地の家を見つけた。その隣が48aだった。おそらくaは、2戸建ての場合につけるらしく、一方が48番地ならば他方は48a番地になっているらしい。48aの家は2階建てで各階に窓がある。3階らしきところには小窓がある、おそらく、屋根裏部屋だろう。
祖父の葉書には「下宿はネッカー川にのぞみ、向こうに山も見えます。部屋はみな南向きですから、終日、太陽が当たっています」と書いてあるので、おそらく、この家に間違いがない。しかし、この建物がその当時に建てられたのかは確認できない。48aには表札がかかっているから人が住んでいるのは確かだが、外出中らしく在宅していないようだ。しばらくすると、近所の人と思しきかなり年配の人が通ったので、私は思い切って経緯を話し、聞いてみた。その老人の話によると、左側の屋根は古い形だからおそらく昔のままでしょうと教えてくれ、3軒先の家の1903と刻してある壁を指さし、この48aも同じころ建てられたものだと教えてくれた。

老人は「ニコッ」と笑い、「You did Good job!」 と私を見て優しく言った。私はこの老人に丁寧にお礼を言った。

目の前にある家は祖父が下宿していた家に間違いなかった。100年経っても存在し変わっていない、この事実に私はヨーロッパ文化の底深さを感じた。と同時に、ハイデルベルグは城、アルテ・ブルク橋、ハイデルベルク大学図書館、聖霊教会などの断片的な遺跡ではなく、町全体がそっくりそのまま文化財なのだと思った。家の前の河川敷には芝生が敷かれ、それに沿って散歩道があった。その道を、肩幅の広いドイツ人が奥さんとゆっくりと歩いている。私は芝生の向こうのネッカー川を眺め、対岸の中世らしい家並みにぼんやりと目をやった。家並みの向こうにはやわらかな山並みが薄っすらと浮かんでいる。秋の気配が感じられる空気が流れていた。

帰りはテオドール=ホイス橋まで引き返し、坂道を登り、右に曲がり「哲学の道」を通った。この道の名称「哲学の道」は、かつて、ゲーテや多くの哲学者や詩人、学生らが散策し、瞑想や思索にふけったことに由来する。
祖父は訪欧する前年に「カントの宗教哲学」で学位を取っていたから、バーデン学派の創始者のウィンデルバンドの学説を完成させたリッケルト教授とは、主観主義的認識論と形式主義的認識論を巡って議論をしていたのに違いない。おそらく、祖父も思索のために、あるいは、議論の疲れをいやすためにこの道を通り、曲がりくねった急なシュランゲン小道を降りてアルテ・ブリュッケ橋を通り、大学に通ったのに違いなかった。

 

【プロフィール】
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)
千葉県生まれ。小説『夕焼け雲』が2015年内田康夫ミステリー大賞、および、小説『したたかな奴』が第15回湯河原文学賞に入選し、小説家としての活動を始める。2016年ルーラル小説『撤退田圃』、2017年ポリティカル小説『したたかな奴』を月刊誌へ連載。小説『錯覚の権力者たちー狙われた農協』、『浮島のオアシス』、『A Stairway to a Dream』、『やさしさの行方』、『防人の詩』他多数発表。2020年から「林に棲む」のエッセイを稲田宗一郎公式HP(http://www.inadasoichiro.com/)で開始する。

 

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