
山本家の林業の歴史は、江戸時代後期からのアカマツ天然林施業と条件の良い所でのスギ造林を始めたころに遡る。
山本家の森林がある乙立町周辺には、大昔の火山活動による粘土質で粘り気のある苗木育成に適した赤土があり、また、旧出雲国は、古くから、全国有数の「たたら製鉄」が栄えた土地だった。
砂鉄を溶かして鉄を生み出す「たたら」には、木炭にするための莫大な量の木材が必要だった。そのため、伐採された山林を再び豊かな緑に戻すために、強く健康で活着の良い杉や松の苗木が大量に必要とされていた。この乙立の赤土を使って培われた高品質な苗木は、出雲地方の「たたら製鉄」の燃料サイクルを支える重要な供給源として重宝されてきたのであった。
しかし、昭和10年代から太平洋戦争にかけての戦時下における強制的な木材供出、さらには、戦後復興の住宅再建ための「追い打ち伐採」の結果、山本家の森林は、江戸時代後期から造林した高齢級の多くのスギやヒノキの林分が伐採されたために、現在では、大正時代に造林した林分が僅かに残っているにすぎない。
山本家では昭和20年代から天然林を人工林へ転換する拡大造林を実施し、昭和40年代までに所有山林の70haをアカマツ、スギ、ヒノキ等への植え替えを実現させた。
造林保育作業は全て森林組合へ事業委託した。ところが、昭和50年代初期に、最も重要視していたアカマツでマツクイ虫被害が発生した。
山本家の森林経営は、苦境に直面し、見直を迫られていた。昭和54年に林業経営を継いだ12代目の和正氏は、昭和55年からマツ林の保続を断念し、ヒノキ、スギ、アスナロ、広葉樹などへの樹種転換を決意し、平成13年までに目標面積の40haを完了させた。
また、同じころ、12代目は保有山林の施業、経営を担う管理会社として「有限会社やまもと」を設立し、山林所有と経営を分離し、自家労務主体の直営事業へと経営を転換した
林業経営の目標は、皆伐を控え間伐を繰り返しながら、節のない年輪の密な良質大径林分を100年以上をかけて育てる長伐期優良材生産を経営の柱にすることである。
具体的には、①高密度作業路網の整備(小型パワーショベルで開設する作業路は幅員2mの素掘り:緩勾配で500m/ha以上)②優良林分の育成(苗木の選定、高密植栽:4000~6000本/ha、枝打:6年生から3年毎に4~5回、20年生までに5m実施)、③利用間伐による収入の安定(ペンキマーク施業:予め将来残す木を選定して印付けによる間伐方法、20年生から5~10年毎に実施)を目標とした林業経営を行っている。

現在の経営面積は人工林142ha(スギ70ha、ヒノキ62ha、他針葉樹・広葉樹10ha)、天然林160haであり、上記①から③の作業を行うために、木材運搬トラック3トン4WDクレーン付き1台、バックホー&グラップル(3トンリモコンウィンチ付き)1台、1.2トン積林内作業車2台を所有している。
また、自家労働は3名、年間500日人役である。さらに、山林台帳については、全山測量を完了し、造林履歴、枝打ち履歴等を整備してある。
年間の事業量は、令和5年から7年の3年間平均で、新植0.2ha、下刈り0.6ha、枝打ち2.0ha(ペンキマーク木のみ)、掃除伐2.0ha、利用間伐5.0haと苗木生産(アスナロ、クヌギ他)である。このように手間をかけ育成してきたにも関わらず、木材を適正価格で販売することは難しい時代になっている。
やまもと林業の2016年の販売材価は、長さ3m、末口径18cm(柱取り)で、1㎥あたり約2万円であったものが、現在の相場では、約1.5万円と更に3割程度安くなっている。
山本さんの話では、昭和50年代は50~60年生の杉林の立木価格が、1ha当たり500~600万円で売れていたものが、今では数十万円と10分の1以下の評価になっているとの事であった。
また、経営を引き継いだ昭和55年頃のマツクイ虫の被害は、経営にとって大きな痛手になったが、今ではこれを契機に従来の古くからの林業経営を転換でき、自分にとっては新たな出発点になったと考えることができ、これが、「災い転じて福?」と感慨深く語ってくれた。
また、「『森造りは百年の大計』と言われ、人の一生と比べると長い。自分一代限りでは百年の森は造れないが、代々、森造りを引き継ぐことにより、この夢が実現できる」と静かに語る12代目の話の中に、明日の利益を求めノルマを与えられ、この瞬間も、働き続けている都会の企業人の姿が重なって見えた。
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)










