7月28日、二戸の「酒蔵:南部美人」での仕事の帰りに仙台から常磐線回りで東京に戻った。途中、浪江町で下車し、2011年の東日本大震災の爪痕を見に行った。年内に出版予定の大震災による原発事故をテーマとした小説『品格を失くした日本人たちー東日本大震災2011年―(仮題)』を執筆中であり、被災した現地を自分の目で見たかったからだ。
仙台から常磐線に乗って浪江町に向かう列車の窓からは、暫くの間、津波がこの一帯まで押し寄せたのが分かった。建物も田んぼも何もなかったからだ。
浪江の前の小高駅を過ぎトンネルに入った時だった。
「ゴーという地鳴りの音が聞こえた」
一瞬、何だと思ったが、なぜか津波が襲ってきた時のような不気味な音に聞こえた。
私には、この音は被災地で被害にあった人間の声に聞こえた。

12:17分に浪江駅に着いた。駅には予約していたタクシーが待っていた。
「どちらに行きますか?」
と運転手さんが訪ねてきたので、訪問したい場所を書いたメモを見せ、
「15:30ころに双葉駅発の特急に乗るので、2時間30分くらいで、被災地を回りたいと思っています」
と告げた。
「分かりました、まずは、浪江町東日本大震災慰霊碑と震災遺構浪江町立請戸小学校をみて、中浜地区大震災祈念碑、両竹地区集落跡、福島県復興祈念公園、東日本大震災・原子力災害伝承館を経て双葉駅に行くことにしましょう。時間的には十分です」
と教えてくれた。
車が走りだし、暫くして、止まった。
「ここは昔、請戸集落のお墓だったのですが、津波で墓石が壊され、津波後には墓石が重なり合い、あるいは、角が壊れ、この一帯に墓石が散らばっていたようです。震災後、集落の人々が先祖を祀るために、墓石を集め、お墓をたてなおしたのです」
と運転手さんは説明した。
私はその場所で車から降りて、新たに集められたお墓に向い頭を下げた。
フト、頭を挙げると、そこには、ひときわ大きな碑があった。その碑に刻まれた文章を読むと、その碑は土地改良区の記念碑であることが分かった。
この地域は、その昔、水がなく米作には適さなかった土地だったと考えられる。しかし、国策で原発を建設することになった。原発には大量な水が必要だったので、国は、この地域で大規模な構造改善事業を行い灌漑用水と基盤整備を実施したのだ。その結果、農民が望んでいたコメが栽培可能になったのだが、同時に、原子力発電所の建設も可能になったのだった。墓の前でこんなことを考えていた。
《地震発生後の約1時間後の15:33ころ10mを超える大津波が請戸集落を襲った》
震災遺構請戸小学校に展示されている震災前の写真や説明資料をみると、この集落は広い水田に囲まれた豊かな田園地帯だったと想像できる。津波が押し寄せた震災後の集落の写真を見ると、家も建物も水田も、何もかもが失われ一面の海水に覆われてしまっていた。

大地震が発生した直後、請戸小学校の全校生徒93人は先生の引率のもと、1.5kmほど離れた大平山に避難した。避難を開始した1時間後に生徒全員が大平山に着いた、と、ほとんど同時に、ゴッーと言う、何とも言えない不気味な轟音とともに津波が小学校を襲い、飲み込んでしまった。子供たちはショックのなかでその光景を目にした。気が付くと視界が届く限りの空間は海となっていた。
津波被害はこれだけでは収まらなかった。福島第1発電所1号機、2号機、3号機、4号機が次々と爆発、双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、楢葉町、広野町および葛尾村、飯舘村の合計8町村が全域避難を余儀なくされ、県全体では約16万の県民が避難したと言われている。
目を瞑り、震災前のこの集落の日常の生業を想像してみた。頭の中には、かつて、ここにあった人々の暮らしと黄金色の稲穂が浮かんでいた。暫くして目を開けると、目の前には、雑草がはびこる土地だけが広がっていた。水田は、一端、放棄されるとアッと言う間に雑草が生い茂ってしまうのだ。
15年たった今、この地域では、農業の再建どころか人が住まなくなってしまった。浪江町の人口は、震災前には2万1,500人だったが、現在は2,500人と約10分の1に減少している。震災は町を破壊し、人の生活を奪ったのだ。この状況は請戸地区だけでなく他の集落でも同じだった。津波に襲われ、家が流され、水田が水没してしまったのだ。
農業がなくなれば、農家がなくなり、雑草がはびこり、人口が減少する。私には、人の姿が見えない雑草だらけの広大な土地空間の中に、将来の日本の農村の景色が見えたような気がした。
日本の総農家数は1990年の約495万戸から2020年の約175万戸へ、農業就業人口は481.9万人から約145.4万人へと大きく減少した。このままの流れで進むと、将来的に日本の農村には、農家・農民がいなくなり、人が住まなくなり、農地に雑草がはびこり、この被災地と似た殺伐たる風景だけが残ることになってしまう。
《私にはその風景がはっきりと見えた。》
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)










