新上五島は教会の島だった-入江・水・さつまいも-

新上五島は教会の島だった-入江・水・さつまいも-

2月28日の深夜、博多港を出たフェリーは、翌日の早朝5:40に新上五島の中通島青方フェリー港に着いた。ローソンで朝食を食べ、レンタカーで島内にある隠れキリシタンの教会を回り始めた。教会の中を見学できるのは9時からだったので、まずは、中通島の北端の津和崎灯台を目指し県道218号線を北上した。途中、車とは、一台もすれ違わなかった。突端の椿公園から灯台までは緩やかな丸太の階段があり、階段を上りきったところに灯台があった。風がやや強かったが晴れており、灯台からは野崎島、宇土島、小値賀島が見えた。

津和崎灯台から見た野崎島・宇土島・小値賀島(右から)

帰りは218号線を南下し、米山教会、仲知教会、大波江教会、青砂ヶ浦教会、に寄り、有川港のうどん茶屋で五島うどんを食べ、午後は、若松島の大平教会、有福教会、中ノ浦教会を見学した。これまで、隠れキリシタンがこの島に移住してきたのは、大村藩が徳川幕藩体制のキリシタン禁教令に従い、隠れキリシタンを弾圧したためだと考えていたが、今回の教会回りでそんな単純な背景ではないことが分かった。

仲地教会

青砂ヶ浦教会

江戸時代、大村藩では、飢饉による食糧難に陥り、また、多くの潜伏キリシタンを抱えており、藩は幕府の禁教令に従い潜伏しているキリシタンに改宗を迫ったが、改宗はうまく進まず、彼らを藩外へ出すか、領内の辺境地へ移して隠れさせる必要があった。一方、五島藩では、農地の開墾が進んでおらず慢性的な農民不足に悩んでおり、新田開発を行うための「出作」や労働力を切実に求めていた。大村藩の「食糧難と隠れキリシタン」と五島藩の「新田開発と農民(労働力)不足」という利害が一致し、両藩は農民移住契約を締結したのだった。

この両藩の移住契約は、隠れキリシタン側にもメリットがあった。大村藩には食糧難で藩の産児制限政策があり、赤ん坊が生まれても間引きを強いられる状況だった。一方、キリスト教では堕胎、間引きは禁じられていたから、これらの産児制限がない五島藩への移住は、隠れキリシタンにとっても都合がよかったのだった。しかし、五島の耕作に適した土地には、すでに、島民たちが先住していたから、キリシタンたちは、不便な辺鄙な入り江や山間の僻地や離れ小島などに移住するしかなかった。中通島でも北の新魚目地区、東の頭ヶ島、西の日島など辺境の地に移住せざるを得なかったのである。実際、これらの地域を車で回ってみると、海岸線の細い道路や半島の谷筋の曲がりくねった道しかなく、当時はこれらの道さえなく、海岸線を小さな船で入り江伝いに北上、東進、西進したのに違いないことが確認できた。

青砂ヶ浦教会付近の入江

大平教会の集落の段々畑

キリシタンたちは、まず、人が住んでいない入り江に入り、次に、水がありサツマイモが栽培できる平らな地形があるかを確認したのだ。これらの条件が満たされた入り江があるとそこに定住し、できうる限り山添いの崖を切り進め、段々畑を作り、イモを植え、集落を作ったのだ。多くの場合、条件が良い入り江があっても、そこには既に、先住民の仏教徒が住んでいたので、キリシタンたちは、山の奥へ奥へと入らざるを得なかったのである。私が訪ねた新魚目地区、西の日島、東の頭ヶ島の教会はいずれも、入り江を見下ろす集落の高台にあったことでも、このことは裏づけられる。
日島は若松島の北西、漁生浦島、有福島の東にある小さな島で、キリシタンの時代には、これらの島々は繋がっておらず離島だったと考えられる。有福教会が立っている場所は入江を望む高台にあり、仏教徒が住む日島と漁生浦島の集落とは繋がっていない地形から、隠れキリシタンにとっては潜伏しやすかったのに違いない。さらに、有福教会からわずか1kmの所に頭子神社があり、海を挟んで1㎞先には源寿院と言う仏教寺があることから、まさに、神仏混合+キリスト教という複雑な社会が形成されていたことが分かる。

有福教会

有福集落隣の頭子神社

また、日島は「日島の石塔群」で知られている。有福島から日島に架かる橋を渡ると、道路の左側に多く石塔群が見えた。車から降りてよく見ると、これらの石塔の多くは五輪塔だった。五輪塔とは、本来は釈迦の舎利(骨)を安置する墓から生まれたもので、その昔、大陸から伝えられ、日本独自の変遷を重ねて現在に繋がっている。五輪塔は5つの石からなっており、下から方形=地、円形=水、三角形=火、半月=風、宝珠形=空よって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素と考えられた5大要素を象徴しており、密教の思想の影響が強いと言われている。

日島の石塔群

日島の五輪塔は1300年代から1400年代にかけて建立された石塔が多い。この時期は前期倭寇の時代に対応している。この時期の倭寇は日本人の土豪や漁民が主体であったことが知られており、また、これらの五輪塔は海に向かって立っていることから、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部で死んだ倭寇の家族たちが、彼らが極楽浄土の世界へ行けることを祈って建立したのではないかと、私は思った。海賊であろうと1人の人間であり、その家族たちが、外地で死んだ夫や息子を極楽浄土へ旅立たせたいと願っていたのは、仏教徒として十分にあり得ると思ったからだ。元々、五島列島は、遣唐使時代から東シナ海を横断し、唐を目指す遣唐使船の最終寄港地として知られていたから、倭寇達も朝鮮半島や中国大陸に遠征する最後の寄港地と考えたとしてもおかしくはないのである。

頭ヶ島天主堂

頭ヶ島白浜集落(入江近くに墓がある)

翌日は、焼崎教会、猪ノ浦教会、旧鯛ノ浦教会、中通島の北東にある頭ヶ島天主堂を訪ね、頭ヶ島の集落インフォメーションセンターでボランティアの話を聞いた。ボランティアの話によると、江戸時代、有川などで疱瘡(天然痘)が流行した時があった。当時、疱瘡は人にうつると考えられていたので、疱瘡で亡くなった遺体を住民が住んでいる墓に埋葬することは嫌われていた。そこで、遺体は無人島だった頭ヶ島白浜に埋葬されたのである。
19世紀に入りこの地域に潜伏していたキリシタンは、ある1人の仏教徒の指導により住民が近づかない頭ケ島に移住したのである。今は中通島の友住郷と頭ケ島集落は頭ヶ島大橋で繋がっているが、当時、両集落は海を挟んで離れており、この地形が、仏教徒とキリシタンが共存できる環境を作りあげていたのである。その後、キリシタンは頭ケ島集落を維持し、明治政府のキリスト教解禁後に現在の教会を建てたのだった。驚いたことに、天主堂が立っている場所は、最初にこの地に移住した仏教指導者の跡地だった。何かの因縁を感じるのは私だけではあるまい。

新上五島の島々は、昔、離島だったので、隠れキリシタンにとっては都合がよかった。彼らは、島づたいに仏教徒が先住していない「入江・水があり、さつまいまが栽培できる土地」を探し、定住したのであった。その結果、新上五島は教会の島となったのだった。

 

【プロフィール】
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)
千葉県生まれ。小説『夕焼け雲』が2015年内田康夫ミステリー大賞、および、小説『したたかな奴』が第15回湯河原文学賞に入選し、小説家としての活動を始める。2016年ルーラル小説『撤退田圃』、2017年ポリティカル小説『したたかな奴』を月刊誌へ連載。小説『錯覚の権力者たちー狙われた農協』、『浮島のオアシス』、『A Stairway to a Dream』、『やさしさの行方』、『防人の詩』他多数発表。2020年から「林に棲む」のエッセイを稲田宗一郎公式HP(http://www.inadasoichiro.com/)で開始する。

 

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